仁美のヒトミ

趣味(読書、芸術鑑賞)の記録を主に、日々の雑感などをつづります。

社会的弱者について

前からなんとなく考えていたのですが
同性愛を嫌悪する層は、社会の一定数いるわけで
そこには一般的な理由があるはず。

ふと、思いつきました。

異性愛者にとっては
面識のない人物に一方的に
性的関心をもって裸体を見られるという場面は
通常ないはずです。
両者の合意が無ければ
服を脱ぐような状況にはならないから。

でも相手が同性愛者だとしたら、ありえますね。
公衆浴場や更衣室などで。
トイレでいっしょになるのもそれに近い。

トイレやお風呂に異性が入ってもOKな状況なんて
普通拒否しますよね。
そう思うとすんなり納得できました。



あとは種の保存に反するというのが大きいと思います。
子供が生まれなければ種族が滅んでしまいます。
国家が同性愛を公認するというのは
社会の維持のため、望ましくないように思います。

まあ、非公認だからといって
生まれつきの性的嗜好が変わることはないでしょうから
公認しなければ同性愛者の数が減るということはないと思いますが
公認=奨励しないでほしいです。
他地域から移住してきて増えるということは起こるでしょうから。

私は同性愛公認の自治体には住みたくないです。
地域に子供が少ないことは自分の老後にマイナスだと思うので。



少数者の権利を無視する社会は健全ではありませんが
少数者の都合に多数が合わせることを強制される社会というのも
どうなんでしょう。



トイレ問題で、
性同一障害者の
多目的トイレがあったとしても
通常の男子・女子トイレを使えないことがイヤだ
という発言を見たことがあります。
身体障害者なども通常のトイレは使えないわけで
被害者意識が強すぎるように感じました。

多数の人が使う場所にはすべて
多目的トイレを設置すべきというなら
もっともだと思いますが。



通勤のバスで「障害者差別解消法」の広告を見ることがあります。
「障害を理由に入店を断ってはいけない」という項目は
うなずけます。
でも「障害者が困っていたら進んで助けなさい」というのは
法律で強制されるような事柄 だろうかと思います。
マナーであってルールではないのではないでしょうか。

このような法律が必要な現実・経緯があることは
わかるんですけど、
「弱者」が周囲の援助を受けることを当たり前として
感謝もしないという場面に合うことが
実際あるので
なんだかなあと思います。

弱者である方がそうでないより偉いのか。
社会的に認知される障害・問題はなくても
苦しい人生を送っている人もいて
それでも他人を助けることを強制されてしまうのか。