仁美のヒトミ

趣味(読書、芸術鑑賞)の記録を主に、日々の雑感などをつづります。

「日本の詩歌 その骨組みと素肌」   大岡信 [岩波現代文庫]

詩人の大岡信氏の コレージュ・ド・フランスでの全5回の講義録
日本の古典詩歌を概括して論じた講義
 
  一 菅原道真 詩人にして政治家
  二 紀貫之と「勅撰和歌集」の本質
  三 奈良・平安時代の一流女性歌人たち
  四 叙景の歌
  五 日本の中世歌謡
 
 
フランスでの講義ということで、
自国の詩歌を自明のものとして語るのとは違います。
客観的な視点、普遍的な論理で論じており
日本人にとっても新鮮で、示唆に富んだ内容になっています。
 
 
 
 
○第一章  菅原道真 詩人にして政治家
 
菅原道真は歴史上、政治家として語られることは多いけれど
漢詩人としても偉大な存在であることが見落とされていることを
大岡氏は以前より主張されているとのこと。
 
 
漢詩」と「和歌」との違いが述べられていたのが興味深かったです。
 
   「漢詩」=社会に対して自己主張することをもって当然とする詩
         主体と客体の区別・対比がはじめから明確に存在している詩
 
   「和歌」=(短い形式で)具体的な論述をすることはきわめて困難。そこに存在するのは、具体的な事物や
         事件の精細な描写ではなく、それらと出会った時の、作者の感動の簡潔な表現。
         (漢詩の自己主張に対して)作者の「自己消去」をごく自然に招き寄せる詩。
 
 
 
 
○第二章 紀貫之と「勅撰和歌集」の本質
 
古今集をはじめとする勅撰和歌集の成立の経緯など
歴史的事象にからめて論じられているので、とても説得力があります。
 
古今和歌集が和歌の歴史の上で重要な存在であるのは知っていましたが
和歌に限ったことではなかったのです。
 
 二十世紀初頭にいたるまで、まさに一千年間、詩歌をはじめとする日本のあらゆる芸術表現、また風俗現象  の、美意識の根本を形づくったのです。紀貫之の仮名序はたえず参照される神聖な美学の基本となりました。
古今集がそこまで重要だったとは!
またしっかり読み直したいと思います。
 
そして「和歌」は日本の文化の柱の一つであるのだと思いました。
だから、この本は日本文化論として読むことも出来て、とても興味深いです。
 
 
 
○第三章 奈良・平安時代の一流女性歌人たち
 
詩歌史を語る時、女性作者を抜いては論じることができないというのも
日本の特徴であるそうです。
(つまり他国は男性作者が主であるということ)
 
主に、万葉集の笠女郎、和泉式部式子内親王を取り上げています。
 
 
私は和泉式部が苦手でした。
理由は、現代のフィクションにおいてもコテコテの恋愛物が苦手なのと同じ。
 
しかし、彼女の歌は、恋多き女の感情が赤裸々にまき散らされているというものではなく、
当時としては珍しい、思索的、論理的、哲学的な内容だったのです。
見くびっていて失礼いたしました
 
     はかなしと まさしく見つる 夢の夜を
         驚かで寝る 我は人かは
  
哲学史の本のどこかに載っていてもおかしくないような内容の一首です。
 
 
 
 
○ 第四章 叙景の歌
 
叙景の歌=
   ある風景を描写することが、そのままの形で、ある内面世界の叙述になっているという性質の作品は、実を   いえば、日本の風景詩あるいは自然詩とよびうる重要なジャンルの、根本をなしている性格なのです。
  
このことは、自分には当たり前で普段意識もしないことでしたが
「日本の」詩の大きな特徴なのですね。
万国共通の詩の特質ではないんだなあ。
 
その理由
   日本の古典的な詩の形式は、きわめて短いのが特徴でした。・・・・こうして日本の和歌や俳句における独特   な詩法が、必然的に、生じたのでした。それは、目に見える外界の事物を、混沌たる内部世界の比喩、ある   いは象徴として、いわば主客未分の状態において表現することです。
 
 
日本文化そのものを考える上で興味深い記述がいろいろあります。
 
日本の詩歌や芸術一般を貫いている「美の原理」・・・・・対象の美は、不変のものとして常に明確にそこにあるのではなく、こちらの心の深さ、浅さ、高さ、低さに応じて、深くも浅くも、高くも低くもなる、というのが、日本の伝統的な考え方・・・・このことは、日本の詩歌について言いうるだけではなく、まさにそのまま、日本の絵画、音楽、演劇その他についても言えるのです。そしてそのすべての美学の中心は、和歌の美学でした。

日本の和歌の主題のうちもっとも根本的、中心的なものは何よりもまず、「相聞」、すなわち、「男女間の恋情を互いに詠じ合う」こと
 
 
さらに、文化にとどまらず、日本人の価値観、思考法、論理性にまで言及しています。
 
日本語は、文章そのものに主語を欠く叙述がきわめて多いという特徴があります。・・・・そのため、日本語では、短く圧縮されていてその分だけ多義的な、意味の重曹性に富んだ表現を容易に得ることができた・・・・けれども、その同じ性質が、もう一つの大きな特徴、見方によっては日本語の重大な欠陥と考えられる特徴をも生み出したのでした。
 すなわち、主語の不在ないしは限りない希薄化です。私はこの特質が、単に古典日本詩歌の特質たるにとどまらず、日本の近代詩歌あるいは散文をも含め、日本人の表現意識全体を支配している重要な一特徴ではないかと考えます。

ある言語の文法的特徴は、その言語を用いている民族の言語意識の反映ですから、日本語の文構造において主語の存在が希薄であるという明らかな事実は、そのまま、民族としての日本人の中に主語の意識が希薄であるということを示しています。

一民族の文化を最もよくようやくして示すのは、その民族の詩歌です。
 
「国際化」のためには英語が必須であるという風潮の中、小学生にまで英語を必修させている
現在の日本ですが、(英語できなくても日本国内の生活には困らないのに)
本当に国際化させたいなら、付け焼き刃の英語より
上記のような意識をもたせ言語(日本語でも英語でも)を使わせるように教育すべきだと思います。
 
まあ、私は島国日本人は根本的に国際化に不向きだから、
無理にさせなくてもいいと思ってますけど。経済的にも落ち目なんだし。
 
 
 
 
○第五章  日本の中世歌謡
 
歌謡=文字通り歌として歌っていたことばですね。
 
私は、日本文学を専門的に学んだことがありますが
それでも歌謡の知識はきわめて少ないです。
梁塵秘抄」「閑吟集」の名前を知っているくらい。
 
何故、歌謡が日本の文学史において軽視されているかの理由も
述べられています。
 
 
日本古典文学を総括的に学びたいならば
歌謡という分野も落とせないようです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最近私は、「和歌と俳句の違い」ということを考えていて
良い文献がないか探しているのですが
とても参考になる本でした。
 
大岡先生、同様の本を俳句でも出していて下さると
とてもありがたいのですが。