「幸田文 台所帖」 幸田文 [平凡社]
幸田文氏のエッセイ集シリーズ
「台所」がテーマ
池波正太郎氏の食べ物エッセイがお好きな女性にお勧めしたいです。
同じ世代で東京出身、通じるものがあるような気がします。
池波氏は作らせて食べる立場、幸田氏は作って食べてもらう立場というのが
違いますが。
単なる美食家というのではなく
食ひいては生に対する哲学があるというか。
台所は女にとって特別な場所であると考えさせられました。
それにしても、幸田露伴ってマメだったんだなあ。
文氏の父である露伴。
生母早世、継母病弱という事情で
文氏は子どもの頃より父露伴から家事を仕込まれます。
当時の男性で(現代においても)
そこまで家事にこだわりがあって
指導ができるのって珍しいんじゃないかなあ。
文氏の家事や生活を通しての人生哲学は
父から学んだものということが
文章からよくわかります。
“父露伴のお言葉”
台所をなんと見ているか、と叱られたことがあります。台所には、火と水と刃物がある。それをおまえは、ごく当たり前のなんでもないものとして、軽々しく考えているようだが、火は山も野も町も焼きつくす火災と同じ火。水は洪水の水と同じ水、刃物またまかりまちがえば人をあやめるものと同じ。台所の手許にあるからというだけのことで、心なくなれなれしく扱うのは、いい気になりすぎている。家中さがしても、火水刃物が揃って置いてあるのは台所だけ、台所ではもう少し緊張した態度、憚りある気持ちが必要だろう。
読んでるとすごくお腹がすいてくる文章もあります。
御存知のように先ず真っ白で、ほそくて、滑らかで、冷たい。この四つが集まって作る、いわば涼しい爽やかさ、とでもいえばいいでしょうか。白という色はどこで見ても、上品な力を備えています。上品は、清々しさ-あっさりしている-さびしい-冷たい等といったつながりが辿れます。・・・・・細さは冴えの感じられるもので、涼しさにも通じます。
これは何でしょうか?
A・そうめんです。
燗の頃合を見ておいて、手早くすうと湯をかけ、しゅっしゅっとふりしぼりにして、あつあつのそれを深めのさらに盛ると、前もってゆずの横二つ切りが用意してあるお盃をとって、私は茶の間へいつも小走りをした。見ている眼のまえで湯気の立つ器のなかへゆずを絞りこんですすめる。一度にたべてしまうほんの二た箸か三箸の、長くはおけない時の間の一と皿である。温度と酢が浸みきってしまえば香りも味も歯触りもすべて失われる。これがうまく行ったときは、あとの一杯は「うまい!」そうである。
これは、まつたけ。
「自分はどうなのよ」と自省の念を覚える文章も数々あります。
「台所の音」
京都のおんなのひとはやさしいといわれているが、どういうところを優しいと思うか、と娘のころすこし改まった調子で父親にただされたことがあった。
ものいいがやさすく、立ち居ものごしがやさしい、などとそんな表側のことだけに感服していては駄目で、台所へ気をつけてみるんだ、といわれた。鍋釜や瀬戸ものへの辺りのおだやかさ、動きまわる気配のおとなしさ、こういうところにしみだしている優しさを考えると、これは決して付け焼き刃や一代こっきりその人だけという、底の浅いやさしさではないと思う。女代々伝えてきた、厚味のある優しさがうかがえるおのだ、と教えられた。