「徒然草」 兼好法師
鎌倉末期に書かれた随筆です。
全二巻、 二百四十四段で成っています。
冒頭(序段)の文章が有名ですね。
つれづれなるまゝに、日暮らし、硯(すずり)に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、
そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂(ものぐる)ほしけれ。
いろいろなブログを見ていると、
タイトルの中でたびたび目にします、この名前。
だからなんだか読みたくなってしまいました
今回は、永井路子さんの訳の簡略版を読みました。
随筆(エッセイ)ですから、作者の兼好法師の独断と偏見?による
見解がいろいろと書かれています。
随筆とブログって似てるかもしれませんね
作者については、
偏屈で頑固だけど、おとぼけた所もあって憎めないおじーさん、
と、そんなイメージを持ちました。
気に入った文章をいくつか、ご紹介します。
ある人が法然上人(えらいお坊さん)に、念仏をしている時に眠気におそわれて、念仏の行いを[第三十九段]
怠ってしまうことがあるのをどうしたらよいかと尋ねたところ
「目が覚めた時に念仏なさればよろしいのですよ。」と答えられた。
目からウロコのお言葉でした。
仕事や勉強はそうもいかないけど
有名な木登り名人といわれた男が、人を指図して高い木に登らせた時、大変危なそうな高い所に[第百九段]
いる間は何も言わなかったが、降りてきて軒の高さほどになったとき、
「けがをするなよ、用心して降りてこい。」と声をかけた。
油断した時が危ないってことですよね。含蓄があるなあ。
何かに名前をつける時、昔の人はちっとも凝ったりせず、ただありのままに気軽につけたものだ。[第百十六段]
ところがこのごろは才知をひけらかすようなつけ方をするように思われるのだが、これはたいへん
嫌みなものだ。人の名前にも、見なれない文字をつけようとするのは無益なことだ。
やたらと派手な子どもの名前は 私、苦手です・・・・・
桜は、満開を過ぎて散っていく姿も良いものだ。月や花に限らず、すべて、はじめと終わりが[第百三十七段]
特におもしろいもの。男女の恋愛もただ逢っているだけが全てではない。
賀茂祭の見物の仕方も、行列だけを見ればよいものではない。初日に見物の人々が集まってくる姿から、
終わった後大勢の人々が帰っていき、さびしい様子になった大路まで、このような全体を眺め、
風情を感じることこそが祭りを見るということなのだ。
お子さんの運動会で、ビデオカメラの撮影に夢中なお父さん、
記憶に残るのは画面の中の我が子の姿だけで、
運動会全体の熱気などは感じないのでしょうね。
春が終わりになって夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春のうちに、早くも夏の気配が生まれ、 夏のうちにもすでに秋の趣は入り交じっているのだ。秋にはすぐに寒くなるが冬の間にも小春日和もあり[第百五十五段]
草やつぼみも育つ。木の葉が落ちるのも、落ちた後で芽が育つのではなく、下から芽ぐんで来る力に
押されて葉が落ちるのだ。次の時へと待機するものが下にあるからこそ交替はすみやかに行われるの
である。
生・老・病・死がつぎつぎに移り変わって訪れる速さはこれ以上である。四季の推移にはまだ定まった
順序があるが、死は順序もなく突然にやってくる。
作品中の作者の中心的なメッセージは「無常の理」、人はいつか死ぬ
ということですが、現代人にはピンとこないですよね。
だから医療訴訟が増加したりするんだろうなあ。
若いときは、血気があふれ、ものごとに触れるたびに心が揺れうごき、愛欲に左右される。愛欲に[第百七十二段]
おぼれ、情にほだされたりして、思いきりのいい行動をするが、それで我が身の一生を誤ったりする。
老人は気力衰え、ものごとに淡泊、そしていい加減にもなり、感動も淡くなる。こうして心も冷静に
なるから、無益のことはしなくなる。
う~ん、私もう「若」より「老」の方が近いかも
世の中には、わけのわからないことが多いものだ。何か事あるごとに、まず酒をすすめ、[第百七十五段]
無理強いに飲ませておもしろがるのはどういうわけか、納得できない。
お酒大好きなある知人が「飲めない人は人生の楽しみの半分を知らない!」
と言われていました。
私は飲めませんが。。。